私のDIY趣味」(自分史)
「DIY」。正確にはDO IT YOURSELF、直訳すると 「あなた自身でしなさい」と、なります。 ガーデニングブームや、庭にせり出したウッドデッキ等で、日本でも最近この言葉をよく見聞きするようになりました。 言葉に拘り(こだわり)をもっている私はこの語源を辿ってみました。
 それは第二次世界大戦の最中、イギリスのロンドンが、ドイツ軍の空襲に遭いました。国に救済を求める人がいる一方で、いや自分達の力で復興しようではないか、という声がどこからともなく興りました。そして「自分自身でする」 という言葉として定着したそうです。(立風書房 編集者氏より)
 日本には1950年代にその言葉と同じくして日曜大工のお店、(現在は発展してホームセンター) の第一号店が埼玉県にオープンしました。今から約50年前のことです。

我が三重県に「ミスタージョン」という ホームセンターが誕生したのが1975年ですから、今から27年前ということになります。

−ここから少々長いですが、私事に移ります−

 25才で結婚した頃、今から30年も前に、私の日曜大工の趣味が始まりました。 その間、世の中の変化、私自身の変化 サラリーマンから脱サラ開業へと、仕事の中身もかなり変わりましたが。
 しかし、趣味であるDIYは少しも変わらず、ますます深まる一方です。
 その30年間に及ぶDIY趣味をここで改めて振り返ってみると、内容において3つの段階を経てきたことに気が付きました。

< 第1段階 >

職業柄、手に入る建築現場の残材を利用した、自家用の家具造り。お金に関係無し。 25〜33才の間。

< 第2段階 >

ある程度の腕前となり、知り合いから注文を請け、材料を購入して造る。代金を受け取る、 お金の出入が始まる。 もう一方の趣味である、音楽との時間配分に腐心する。 34才〜50才の間。

< 第3段階 >

第2段階を維持しながら、リサイクルとボランティア の要素を加えた。更に、刃物研ぎと雨水利用に手を広げた。反面、音楽を止めてしまう。 50才〜現在まで。

< 第1段階 > 無料の時代

 私の生家は三重県の松阪市と伊勢市に挟まれた中間の農村地帯、三重県多気郡明和町にあります。
http://www.town.meiwa.mie.jp/(明和町:いにしえの竹の都)
 幼い頃は、ごく平凡な専業農家であると思っていましたが、 後になって専業農家では無いことが分かりました。 私の趣味であります、DIY(日曜大工)に何か遺伝的要素? があるのかな、と考えて縁者に尋ねてみました。
 すると曽祖父が大工であったとのこと。なるほど、 幼い時、納屋の引出しから、古めかしいノコギリやカンナ 等が出て来たのを覚えています。 そして、物心ついた頃から、我が家は農業の傍らで、唐傘の材料である(和傘:最近は全く見かけませんが、温泉街でたまに見かけます。) 竹材の骨を造っては傘問屋さんに納め、生活費を補っていました。
 家を造る大工に対して傘の骨とは随分スケールの違う話ですが、共通しているのは手先が器用で あったことでしょう。幼い頃の記憶の中には、作業場である納屋には 傘の骨を加工する為の竹用ノコギリ、竹割刀、切り出しナイフ、それに穴を明ける機械等がありました。それらは良く切れるように、いつも研ぎまされていたのを覚えています。
 農繁期以外は、毎日家族4人が早朝から夜遅くまで傘骨を造っていました。子供であった私も、時にはその隅に座り、小刀を使って竹トンボなどを作っていたりしていました。
 ちなみに、当時はこのようにして1ヶ月間フルに働いて4人で5,000円くらいだったのではないかと思います。
 結局、私のDIY趣味のルーツは、こんな所?にあったのかもしれません。

 やがて、この傘骨の副業は昭和30年頃から急に廃れてしまいます。その原因はコウモリ傘の出現です、現在は単に「傘」と言いますが、当時は「唐傘」に対して「コウモリ傘」と言っていました。私の父と長兄は、副収入の道を断たれしまい、道路工事の作業員として働きに出ることになります。 ちょうど、日本の建設ブームの始まりだったのでしょう。
当時の日当は200円でした。 (続く)