将来は大工に、から現場監督に。
 このような生い立ちから、私は小学生の頃、人に「君は大人になったら何になるの?」と聞かれたら、 迷わず「大工になる」と答えていたものでした。 やがて私が中学生になった時、周辺の町村合併が成立して、 2つの中学校が、1つに統合することになりました。まず、 第1棟として鉄筋コンクリート造3階建ての校舎が 完成して、私達生そこに移ることになりました。 しばらくすると第2棟の工事が始まりました。 その当時は、今の工事現場とは違って仮囲いや養生シートで覆うことも無く、教室の窓から工事の様子が手に取る 様に見えました。
 しばらくしていると、現場監督らしき青年が オートバイに乗って颯爽と現れては、 職人さん達に指示を与え、工事が着々と 進んでいきます。指示をされるのが「大工さん」(型枠大工さん)で、指示をするのが現場監督。かっこいい!!。その光景が私の職業を決定付けた、 と言っても過言ではありません。
「大工やぁーめたぁ」。これが第1の職業である 建築現場員になる所以(ゆえん)であります。
 今になって考えて見ますと、趣味というものはある程度の 年齢になり、生活にゆとりが出来てから始まるもので はないでしょうか。学校へ通っている間は勉強とクラブ活動。社会に出てからは 仕事に慣れるのに精一杯で、趣味をしたいという欲求はあまり 湧いて来ないのでしょう。
 その後、伊勢市にある工業高校の建築科を卒業し、東京の
松井建設 http://www.matsui-ken.co.jp/ (社寺建築で有名・創業1586年 天正年間)
というゼネコンに就職し、初期の目的は果たしたことになりました。 希望通り現場監督の卵として、「生き馬の目を抜く」東京での生活が 始まりました。正確には、都内の工事現場もあれば、近県(神奈川・埼玉・千葉) の工事現場を約半年毎に移り変わる、いわゆる現場監督暮らしでした。 この間は4年間でしたが、趣味と言えるほどのことも何もせず、せいぜい 彼女を探し出すために、色々と探していた程度でした。(^^;)
写真は最初の現場にて(1965年 東京都港区琴平町 町名は当時)

結婚後、社宅住まいとなり趣味が始まる。
 「私のDIY生活」というテーマで書き始めたこの文ですが、なかなか本題(DIY)に 入っていきません。前置きが少々長すぎましたのでスピードを上げます。  東京の松井建設には結局、4年間お世話になりました。
 そして、23才で郷土の三重県に戻り、三重県津市にある増井工務店さんに拾って頂くことになりました。独身時代の2年間は生まれ故郷の実家から通い、25才で今の家内と結婚してからは運が良いことに、会社所有地の一角に建つ社宅に、家賃3,000円で入居出来ることになりました。
 これは経済的負担の軽減もさることながら、通勤時間が1分ですから時間的にも随分な余裕が生まれました。当時、都会周辺のサラリーマンの通勤時間は片道1.5〜2時間でしたから、往復で3〜4時間も得をしていたことになります。
 これで趣味をしなかったら神様に申し訳が立ちません。DIY材料の入手と作業場所にも恵まれました。 建築現場からは、あらゆる資材の「ロス」が恒常的に発生します。鉄筋や鉄骨、ブロックやレンガ類はなかなか再利用が難しいですが、木材や合板の切れ端は、私の生い立ちである手先の器用さを蘇らせてくれました。 子供達の工作の始まりが、大抵「本立て」であるように、まず私も本立てを造って、会社の同僚に配りました。次が収納棚、テーブル、ベンチ等と次第に拡がって行き、2.3年すると写真@のような食器棚が造れるようになりました。

 この頃の私は建築技術者としても伸び盛りで、現場主任として着工から完成引渡しまでを一人で責任を持たされ、ようやく一人前の監督として認めて貰えるようになりました。 昼間は工事現場で職人さん達の相手、夜は会社に戻り、施工図書きと別物件の見積もり。 その間に趣味のDIYを挟み込むことに苦労したことを覚えています。
 そして、30才を過ぎた頃から、社外の人達から見積りのアルバイトが舞い込むようになりました。1.2万円と給料以外の臨時収入に味をしめた結果、国家資格である一級建築士試験には一度もチャレンジすることなく、二級建築士のままになってしまいました。 自業自得というものでしょう。 家具造りにある程度自信がついた私は、友人や親戚にこのような食器棚を何台も造り、 差し上げては喜ばれたものです。この段階までは、材料費がタダで製品がプレゼントです。お金には関係の無い、第1段階ということができます。