看板と私 その1

 看板に関して、私には色々な思い出があります。昭和40年三重県の高校を出て就職したのが、松井建設の東京本社。
 現在はコンクリートを上の階に揚げるのはポンプ車以外には考えられませんが、当時は、「コンクリートタワー」なる鉄骨のヤグラを組み、その中にバケットを上下させることにより、生コンを上階へ運ぶ方法が普通でした。また、そのタワーが現場のシンボルでもあったので、高ければ高いほど、我々現場員の胸が躍ったものです。
 そのタワーの最上部に、社名を書いた看板をタテ4面に取り付けるのが会社の方針でもあり、我々の誇りでもありました。無論、外部足場にも横に〇△建設という具合に看板を取り付けます。

懐かしい看板を発見、胸熱くなる

 その松井建設にお世話になったのは18才からの4年間だけですが、当時、電車の窓からや、知らない所へ行って、我社の看板を見掛けた時何とも言えない嬉しさがこみ上げてきたのを、30数年経った今でもはっきり覚えています。
 もう3、4年前でしょうか、ドライブで琵琶湖湖畔を巡った時、大津市内で建設中のホテル現場のシートに同社の看板を見付け、懐かしさのあまり、現場事務所へ飛び込んで、若い社員さんと夢中で話し込んだことがありました。後で車へ戻った時、車内で1時間以上待ったと、家内がプンプンだったことを思い出します。
 やがて、ポンプ車の普及と共に、コンクリートタワーは「無用の長物」として、現場から姿を消し、従って看板は外部足場のみとなってしまいます。


消えたゼネコンの看板

 ところで最近、いや、もう10年にもなるでしょうか。この外部足場からもゼネコンの看板を見掛けることが少なくなりました。加えて、シートからも社名が消え、殆ど無地、なぜ看板を出さなくなったのでしょう?
 下衆(ゲス)な勘ぐりで、もし外れていたらゴメンなさい。ころはひょっとすると、関東地方や、東北地方のある県で発覚した、公共工事を巡る良からぬ出来事で、ゼネコンの営業の在り方が批判を浴び、これをキッカケに、社名を大きく出すことをためらう風潮が一般的になったのではないでしょうか。


どことなく寂しい現場風景

 この後、しばらくして、「CI」・・・コーポレートアイデンティティーと言うのでしょうか、従来の社名から「建設」や「組」を外したり、カタカナにしたり、ローマ字に置き換えたり、はたまた、長年親しんだマークを取り止め、何やら意味判らぬ抽象的なデザインに置き換えたりで、外見は近代的な企業にヘンシンしてきたようです。
 そして、その垢抜けしたマークとローマ字で社名を書いたシートを真中にポツンと1枚、というのが現場における唯一の看板になったようです。そして最近はその1枚のシートすら発見するのは珍しく、無地のシートで全面を囲み、わずかに「確認札」や「労災札」でのみ、元請の名が判るようになってしまったのは、昔を知る私として非常に寂しい現場風景です。


看板無しは全国的な風潮か

 完成が近づき、外部足場が外され、ビル全体が姿を現しますが、建物に看板が取り付いていることも少なくなりました。
 昔はペントハウスの一番高い所に、その会社のマーク、その下に社名看板を、外壁の端には袖看板、玄関庇にはステンレス箱文字と、どの角度から見ても、どこの会社であるかが一目瞭然に判ったもので、それが極く当たり前でした。
 ところが最近は様子が変わりました。貸しビルは別として、本社ビルでも看板は見当らず、玄関ポーチの所に、社名が刻み込まれた黒御影石がひっそりと置かれている程度です。どうしてこんな風になってしまったのでしょう?別段不祥事があった訳でもないでしょうに。
 いや、まてよ。これが日本全体の風潮とすれば、建設現場からゼネコンの看板が消えたのも時代の流れに合っていると言えるのでしょうか、どちらも私には少し寂しく感じられます。


  1. イメージ昔の現場風景
  2. イメージ今の現場風景