<第2段階> 家具を造って代金を貰う。
 DIYに的を絞って書き始めた文章ですが、生来が生真面目なタチです、どうしても遊びの話だけという訳にはなりません。ついつい本職との関係が出てしまう点をお許し下さい。
 私の2番目の会社「増井工務店」は残念ながら数年前に破産宣告を受けて、会社そのものが無くなってしまいました。その会社が健全だった頃に、私は10年間お世話になり、お陰でこの津市という三重県の県庁所在地に根をおろすことが出来ました。 建築積算事務所というビジネスを三重県で最初にスタートさせて貰ったのですから 「恩人」ならぬ「恩会社」として感謝しない訳には参りません。
 昭和54年4月、個人経営で、「剛(ごう)積算事務所」という名を付け自分1人で会社をスタートしました。大工さんや中小工務店、設計者達から「便利だ、助かる」との、一定の評価を頂いて、順調なすべり出しを得ました。とは言っても、頼まれる仕事のゆえ、一時に注文が重なってしまって、お断りを言った事もあれば、パッタリと仕事が無くなり、2、3日遊んでしまうという事もありました。空いた1日目は自身に鞭を打って営業に出ますが、性格が「待ち」の人間の為、2日と続きません。 次の日は諦めて家具工房に入り何か造り始める、という状態が5年程続きました。
 家具造りの腕前が目に見えて上がったのがこの時期です。その決め手は木工機械の購入にあります。商品は自働カンナ、木材を押え付けて 一定の厚みに削る能力と、その木材の角を直角に削る能力を併せ持った機械です。 「マキタ」製の物を14万円くらいで購入したのを覚えています。写真−@、
写真−@ 自動カンナ
この機械は20年近く経った今でも元気良く、ほとんど毎日役に立ってくれています。木工の作業で最も頻繁に使うのが、製材機と切断機で、木材を縦に平行に、と横に垂直に切断する機能を併せ持った機械です。これは、私のこの道の師匠である、家具職人、別当正夫さんが造り、使っていたのをしっかり盗み見して来て、自分で再現して造ったのが写真−Aの機械?いや道具と言った方が正しいでしょうか。これら2台が私の家具造りの腕前を一段階上に押し上げてくれまして、お客様の注文に応じて戸棚類を造って1万円とか2万円のお金を頂けるようになりました。
写真−A 製材機

材料調達には苦労する。
 工務店に勤め、現場責任者をしている頃は木材や合板の切れ端が日常的に発生し、夏以外はそれらをドラム缶に投入して燃やしていたので、その中から目ぼしい物を持って帰り、再利用すると言うことが極めて容易でした。しかし、工務店を退職して自宅で仕事を始めたとたんに、この材料入手の道が無くなり不便になりました。もちろん、新材を購入すれば良いのですが量と、ストックの場所、費用の問題があります。たとえば、ラワン合板91cm×182cm、厚さ2.7mmを10枚、木材で4.5cm×1.8cm、長さ4mを20本とか持って来て欲しいなどという、少量の注文は恥しくて出来ません。と言っても、くだんのホームセンターにもそれらは並んでいましたが値段が、それまで付き合っていた建材店の約1.5倍になっておりばからしくて買えません。やむを得ず、工務店時代、仲良くしていた大工の親方にお願いして、現場から引き揚げて来た残材をお酒一本と交換して貰うことにし、合板は名馴の建材店より10枚づつ運んで貰うことにしました。いずれにしてもここから先は材料が有料になり、必然的に出来上がった家具にも値段を付け、お客様からお金を頂戴しなくてはならなくなってしまいました。

写真−B その頃の作品

ひとくちに家具といっても色々あります。
 一般の皆さんが「家具造り」と聞くと、多分細い木を複雑に組み合わせた美術工芸的な椅子やテーブルを思い浮かべられることでしょう。 絵−@

絵−@ 椅子
 一方、我々建築に携わる者達が思う「家具造り」とは大半が「フラッシュ造り」と言って、格子状の骨組みに両面から化粧合板を貼り合わせてパネルを造り、それらをボックス状に組み立てた家具を思い浮かべます。前者は広葉樹の硬い木を丹念に組み合わせ、表面をツルツルに磨いて塗料を塗って仕上る方法で、高い技術を要します。木造住宅に置き換えると、伝統的軸組工法と同じです。それに比べると後者は面と面との組み合わせですから「2×4工法」、ツーバイフォーと言うことが出来ます。それほど高い技術がなくとも形を造りだすことが出来ますし、大きな物にも対応できます。勿論、私は後者のフラッシュ造りを得意としておりますから早い話、木工の技術は大したことはないと言うことになります。 

音楽趣味とのシュア争いに腐心する。
 また話はDIYから脱線させ頂きます。 30才くらいの時、マイホームを建てることになりました。この時の棟梁、森田信隆さんがたいそう粋な人で、彼は中学を出ただけの一見、普通の大工さんですが大変な努力家で、後に一級建築士試験に一発でパスするほどです。その森田さんが実は三味線を弾いて、詩吟を唸るなどの粋人でした。もちろん、建築屋である私がマイホームの建築を委ねるのですから大工の腕は一流です。その彼にこう言われました。(潮田(うしおだ)の名前を略して)「ウシやん、建築も日曜大工も所詮は同じ、もっと違うことをやったらどうや、出来たら人の輪の中で」。なるほどそうだ、そこでかねがね興味を持っていたマンドリンという楽器を先生に就いて習うことにしました。
 この楽器はイタリアで生まれた歴史を持ち、写真−Cのようにギターに比べてちょうど半分くらいの大きさで、ややかん高い音を出します。

写真−C マンドリンを弾く女性
故、古賀政男氏が創設した「明治大学マンドリン倶楽部」は今でも有名です。週一度のレッスンをちょうど2年続けた後、師匠である中村たけお先生の率いる「三重マンドリーノ」の一員として楽しく活動させて貰いました。海外への演奏会も2度ほど連れて行って貰ったのは良い思い出として残っております。
 実はこの音楽趣味と、元来のDIY趣味との間で大いに悩むことになります。それはグループの方々は音楽が第一番の趣味ですから十分な練習を積んでおられます。こちらは、「二束のわらじ」です。メンバーのレベルに従って行くには毎日1時間の家庭練習、そして週一回夜のグループ練習、加えて月一度の一日中練習に出席することが必要です。これらは団体行動ですから個人のきままは許されません、この二つの趣味のはざまで時間配分には苦労しました。その頃の晴れ舞台が写真−Dです。

写真−D 演奏会
手と体はDIYの方に向き、頭は音楽の方へと、今考えると不本意な二重生活だったように思います。
 その「三重マンドリーノ」には13年お世話になり、退会後、1年くらいするとまた音楽をやりたくなり、今度はギターを、別の先生に就いて習いましたが、こちらは2年くらいで「モノ」にならないまま。結局、50才の節目でこれら音楽趣味に終止符を打ち、第一の趣味であるDIY専門に戻ることになります。振り返ってみますと、手先が少し器用であったのと「気が多かった」。この二点であり、別の言い方をすれば「ニ兎を負うもの一兎をも得ず」ということになりますかね。いやDIYはしっかり残りましたし、音楽を通じて得た友人達(男女計10人ほど)とは今でも交流が続いているので、「1.5兎」は得たことになると思います。

DIYと音楽に止まらない私の趣味。
 小学生の頃、巨人ファンが多いのに反発したのが始まりで、阪神タイガースファンをもうかれこれ40年くらいやっていますが、自分でスポーツをやるのは概して苦手であります。全身と口はあまり動かず、もっぱら手と頭しか思うように動きません。英会話も趣味の一つで、初級講座に通っていますが、こちらの方はほとんど上達しませんが、ただ継続あるのみです。もう一つは、「クラス会の幹事」。小学校、中学校、高校の他に、元会社のOB会、町内親睦会など、時々会を催してはせっせと世話を焼いております。 写真−Eは平成14年の町内花見会。

写真−E 花見